LOGIN魔王の娘、ルナリス・ヴェルグリムは眠れなかった。
王城内に用意された客室。
ふかふかのベッド。清潔なシーツ。香りの良い花。窓の外には、まだ夜明け前の王都が広がっている。和平の証として送られてきた魔王の娘に対し、人間側は腹立たしいほど丁寧だった。
「……気に入らないわね」
ルナリスはベッドの上で膝を抱え、小さく呟く。
人間は嫌いだ。大嫌いだ。
魔族を恐れ、憎み、都合の良い時だけ和平を口にする。 そんな連中に用意された部屋で、安心して眠れるほど、ルナリスはお人好しではない。それに――。
「ぶっ殺したい本能と戦っています、ね」
昨日会ったばかりの聖騎士――ソフィア・ストレイルの言葉が、頭から離れなかった。
あの女は、魔族が嫌いだ。自分も嫌いだと言われた。
なんなら、殺したいとまで言い切った。なのに、守った。
人間の刺客から。人間の王城で。人間相手に迷いもなく。
「……意味が分からないわよ、なんなのよあいつ」
ルナリスはずっとソフィアのことを考えていた。
あの女の中では、矛盾していないのだろう。 魔族は嫌い。けれど護衛対象なら守る。命令なら、絶対に守る。全く意味が分からないくせに、妙な安心感がある。
それが、ソフィア・ストレイルという人間なのかもしれない。「だからって、姫を前に堂々と殺意を宣言する必要ある?」
ルナリスは枕に顔を埋めた。
その時、扉が叩かれた。「ルナリス様。起きていますか」
聞き覚えのありすぎる声だった。
「起きてるわよ。何よ、朝にはまだ早いでしょう」
「出立準備の確認に参りました」 「はぁ!? 早すぎない!?」扉を開くと、そこには完全武装のソフィアが立っていた。
白銀の髪は綺麗に整えられ、鎧には曇り一つない。腰には剣。背筋は真っ直ぐ。
そしていつも通り、無駄に真面目な顔をしている。仏頂面と言ってもいいかもしれない。「早いとは認識していません。現在、夜明け前です。余裕を持った行動が生存率を上げます」
「人を寝不足で殺す気?」 「……困りましたね。睡眠不足は判断力を低下させます。何故こんなことが起きたのか……」 「あんたよ。あんたのせいでしかないのよ」ソフィアは少しだけ考えた。
「今から寝直しますか? 今なら私も傍に控えておりますが」
「一番眠りの妨げになっている奴が吐く台詞じゃないわね!?」 「私、ですか? 説明を求めます、ルナリス様」 「昨日あれだけ殺す殺さないの話をされたら、眠れるものも眠れないのよ! 私は和平の証として来てるの。殺害予告を受けに来たわけじゃないの!」 「ルナリス様も苦労なさっているのですね」 「あんた喧嘩売ってんの!?」ルナリスは額を押さえた。
本当に最悪の護衛である。「あんたと喋っていると毎回頭痛がしてくるわ……」
「私の……。それならば謝罪します。申し訳ありませんでした」 「あら、意外と素直ね」 「私はただ魔族を斬りたいだけで、ルナリス様に頭痛を与えたいわけではありませんので」 「謝罪に殺意を混ぜるな!」 「……難しいですね」 「何でよ! 適応しなさいよ!」早朝から疲れる。
ルナリスは心の底からそう思った。そんな彼女へ、ソフィアは手に持っていた小さな紙袋を差し出す。
「これは?」
「焼き菓子です」ルナリスの動きが止まった。
「昨夜、任務上必要な物資として申請しました」
「だから菓子を物資扱いするなって言ったでしょうが!」文句を言いながらも、ルナリスの視線は紙袋に吸い寄せられていた。
恐る恐る中を覗く。
丸く焼かれた小さな菓子が、いくつか並んでいた。 薄く焼き色がついた表面から、甘い香りが漏れている。「……これが、人間の焼き菓子」
「はい。これが以前お話しした兵站部の騎士たちに人気の品です。保存性が高く、移動中の栄養補給にも向いています」 「へぇ。まあ、そこまで言うなら? 和平のために? 人間文化を知る必要もあるかもしれないし? 食べてあげなくもないけど?」 「どうぞ」ソフィアは真顔で袋を差し出した。
ルナリスは一つだけ取り出す。
この時、ルナリスはこの瞬間の飲食に関し、前向きだった。食事に毒を盛られていたことなど、星の数ほどあるというのに。 だが、少女は確信していた。毒なんて入っているはずがない。 少なくとも、この女が自分を殺すなら、今すぐにでも剣を振るうだろうから。そう思いながら、一口。
さくり。
軽い歯触り。香ばしい生地。
口の中でほどける優しい甘さ。 後から、バターと蜂蜜の風味がゆっくりと広がっていく。 今すぐにでもジョッキにたっぷり入ったミルクを飲み干したい気持ちになった。「…………」
「どうしました」 「……別に」 「もしや口に合いませんでしたか?」 「別に」 「普通、ということでしたか。これ以上、無理に食べさせるつもりはありません。残りは私が処理します」ソフィアが紙袋へ手を伸ばした瞬間、ルナリスは素早くそれを抱え込んだ。
「……まだ調査中よ」
「なるほど」 「これは和平に必要な調査なの。人間の食文化を理解するための、極めて重要な任務なのよ。あんたなら分かるでしょ?」 「物資扱いは正しかったということですね」 「そういう意味じゃない!」ルナリスは二つ目の焼き菓子を口へ放り込んだ。
表情は不機嫌なまま。
だが、赤い瞳は明らかに輝いていた。ソフィアはその様子をじっと見つめる。
「ルナリス様」
「何よ」 「恐れながら、人間の焼き菓子に完全敗北しています」 「してないわよ! これは和平的勝利よ!」 「和平とは、菓子一つで成立するものなのですか。なるほど……それならば国内の菓子屋に掛け合い、大量増産を……」 「何で菓子一つで和平を理解しようとしてるのよ!」ルナリスは三つ目を食べた。
言葉と所作は正反対。
つまるところ、ルナリス・ヴェルグリムは完全に敗北していた。 ◆ ◆ ◆ 出立の時刻になると、王城の正門前には護衛の騎士たちと馬車が揃っていた。和平会議の地、ラディア中立都市までは数日。
昨夜の刺客の件を考えれば、道中も安全とは言い切れない。ルナリスは黒い外套を羽織り、馬車の前に立っていた。ちなみに黒い外套は魔族特有の角を隠すための配慮である。
その隣にはソフィア。 少し離れた場所には、聖騎士団長アルヴィナと副団長ガルドの姿もある。「ソフィア」
アルヴィナが静かに声をかけた。
「今回の任務は剣だけで全て解決しないわ。護衛対象であるルナリス様との信頼関係構築も必須なのです。分かるわね?」
「心得ています」 「本当かしら?」 「努力します」 「不安ね……」即答の後にため息が返ってきた。
そこへガルドが、ひらひらと手を振る。「ま、気張りすぎんなよソフィアちゃん。姫様を目的地まで無事に運べばいいんだからさ」
「運ぶって何よ。荷物じゃないんだけど」ルナリスが睨む。
ガルドは軽く笑った。「こりゃ失礼。けど姫様、うちのソフィアちゃんはあんな感じだけど、腕は本物だ。そこだけは信じてやってくれ」
「腕だけはね」 「そうそう。腕だけは。他はアレだけどな」 「質問です副団長。それは私のことを褒めているのですか?」 「褒めてる褒めてる」全く信用ならない声だった。
やがて、王城の門が開く。 その外には、多くの王都の民が集まっていた。「魔族だ……」
「何で魔王の娘が王都にいるんだ」 「戦争で死んだ奴らのことを忘れたのか!」憎悪。
恐怖。 怒り。それらが混ざった視線が、ルナリスに突き刺さる。
ルナリスは顔色一つ変えなかった。
慣れている。慣れてしまっていた。だが、その指先がほんの少しだけ外套を握ったのを、ソフィアは見逃さなかった。
「くそが!」
汚い言葉が発せられた後、小石が飛んだ。
群衆のどこから投げられたものか。
それは真っ直ぐ、ルナリスの額へ向かっていた。届く前に、ソフィアの手が掴む。
「……」
ソフィアは握った小石を見る。
次に、群衆を見た。碧い瞳から、すっと光が消えた。
戦場の目だった。「ソ フ ィ ア」
アルヴィナの声が飛ぶ。
「分かっています」
ソフィアは小石を握り潰した。
乾いた音と共に、石が粉になる。「護衛対象への攻撃行為を確認しました」
声は静かだった。
「次に同様の行為があった場合、敵対行動とみなし、投げた腕を使用不能にします」
群衆が凍った。
「使用不能って何よ」
「折ります」 「言い切ったわね」 「斬らないだけ温情です」 「温情の基準が怖いのよ」ルナリスは呆れたように言った。
けれど、その声は少しだけ震えていた。「……あんた、本当に私を守るのね」
「もちろんです」 「人間からでも?」 「必要とあらば」 「魔族からでも?」 「魔族は即刻殺しますよ? 何を言っているのですか」 「私をぶっ殺したくても?」 「当然です。今は護衛対象なのですから」即答だった。
本当に迷いがない。ルナリスはしばらくソフィアを見つめてから、小さく笑った。
「やっぱり最低の護衛ね」
「変更しますか? 恐らく今ならまだ間に合うと思いますが」 「しないわ」ルナリスは馬車へ乗り込む。
「あんたがいいわ。今のところは、ね」
「承知しました」ソフィアは馬車の横に立つ。
王都の門が、ゆっくりと遠ざかっていく。こうして、人類最強の聖騎士と魔王の娘は、和平会議の地へ向けて旅立った。
魔族嫌いの騎士と、人間嫌いの姫。
仲良くできるわけがない。だがルナリスは、馬車の中でこっそり紙袋を開きながら思った。
少なくとも。 この最低な人間と、この菓子だけは、少しだけ信用してもいいかもしれないと。魔王の娘、ルナリス・ヴェルグリムは眠れなかった。 王城内に用意された客室。 ふかふかのベッド。清潔なシーツ。香りの良い花。窓の外には、まだ夜明け前の王都が広がっている。 和平の証として送られてきた魔王の娘に対し、人間側は腹立たしいほど丁寧だった。「……気に入らないわね」 ルナリスはベッドの上で膝を抱え、小さく呟く。 人間は嫌いだ。大嫌いだ。 魔族を恐れ、憎み、都合の良い時だけ和平を口にする。 そんな連中に用意された部屋で、安心して眠れるほど、ルナリスはお人好しではない。 それに――。「ぶっ殺したい本能と戦っています、ね」 昨日会ったばかりの聖騎士――ソフィア・ストレイルの言葉が、頭から離れなかった。 あの女は、魔族が嫌いだ。自分も嫌いだと言われた。 なんなら、殺したいとまで言い切った。 なのに、守った。 人間の刺客から。人間の王城で。人間相手に迷いもなく。「……意味が分からないわよ、なんなのよあいつ」 ルナリスはずっとソフィアのことを考えていた。 あの女の中では、矛盾していないのだろう。 魔族は嫌い。けれど護衛対象なら守る。命令なら、絶対に守る。 全く意味が分からないくせに、妙な安心感がある。 それが、ソフィア・ストレイルという人間なのかもしれない。「だからって、姫を前に堂々と殺意を宣言する必要ある?」 ルナリスは枕に顔を埋めた。 その時、扉が叩かれた。「ルナリス様。起きていますか」 聞き覚えのありすぎる声だった。「起きてるわよ。何よ、朝にはまだ早いでしょう」「出立準備の確認に参りました」「はぁ!? 早すぎない!?」 扉を開くと、そこには完全武装のソフィアが立っていた。 白銀の髪は綺麗に整えられ、鎧には曇り一つない。腰には剣。背筋は真っ直ぐ。 そしていつも通り、無駄に真面目な顔をしている。仏頂面と言ってもいいかもしれない。「早いとは認識していません。現在、夜明け前です。余裕を持った行動が生存率を上げます」「人を寝不足で殺す気?」「……困りましたね。睡眠不足は判断力を低下させます。何故こんなことが起きたのか……」「あんたよ。あんたのせいでしかないのよ」 ソフィアは少しだけ考えた。「今から寝直しますか? 今なら私も傍に控えておりますが」「一番眠りの妨げになっている奴が吐く台詞じゃないわね!
黒装束の刺客たちが床に降り立つ。 一人は短剣。 一人は魔法杖。 一人は手斧。 装備に統一感はない。だが、三人から放たれる殺気は同じ方向を向いている。 狙いは、魔王の娘ルナリス・ヴェルグリム。「ソフィア!」 アルヴィナの声が広間に響いた。「可能な限り生かして捕らえなさい! 背後関係を調べる必要があります!」「了解」 ソフィアは即答した。 それを聞いて、ルナリスは少しだけ目を細める。「へぇ。殺さないんだ」「団長命令ですので」「命令がなかったら?」「ぶっ殺します」「そこは少し取り繕いなさいよ!」 ルナリスの抗議に答える暇はなかった。 短剣を持った刺客が、床を蹴る。 速い。 並の騎士では目で追うことも出来ない速度。 その瞬間、ソフィアはこの刺客がただの雇われじゃないことを悟る。気になることも多々ある。 しかし、今は迎撃が優先。そして、相手の動きは、ソフィアにとっては遅すぎた。「一人目」 ソフィアの姿が消えた。 否、そう見えただけだ。あまりにも無駄のない踏み込みにより、周囲の視線が追いつかなかったのである。「がっ!?」 刺客の手首から短剣が弾け飛ぶ。 次に膝裏を蹴られ、体勢が崩れたところへ首筋に剣の柄が入った。 刺客は白目を剥き、その場に崩れ落ちる。「見てくださいルナリス様。これが未来の貴方の姿です」「やっぱりあんた、私のこと殺す気じゃない!」「失礼。本音が漏れました」「漏れてるどころか決壊してんのよ!」「ですがご安心を。任務なので手荒なことはしません。ルナリス様は斬らず、折らず、気絶させませんので」「当たり前よこの馬鹿!」「仲良く喋っている場合ですか!」 アルヴィナの鋭い声。 だが、それはソフィアに向けたものではなかった。 魔法杖を持つ刺客が、巨大な黒炎を生み出していた。 その炎はただの炎ではない。魔力を食らい、肉体ではなく生命力そのものを焼く呪いの炎。 広間にいた騎士たちが一斉に顔を強張らせる。「黒炎……魔族の魔法か!?」 誰かが叫んだ。 その瞬間、広間にいる人間側の騎士たちの視線が、僅かにルナリスへ向いた。 ルナリスはそれに気づいた。 ――あぁ、またか。 ルナリスの心の声は、諦めの感情が滲んでいた。 自分が攻撃されている側であるにもかかわらず、疑いの視線が向けられる。
――魔族は敵である。絶対に殺すべき敵だ。 少なくとも、ソフィア・ストレイルはそう教わってきた。 魔族の証たる角を持つ者は斬れ。牙を剥く者は斬れ。人に害を成す者は斬れ。 そこに迷いなど必要ない。何故なら、聖騎士とは魔族を斬り裂く聖剣であり、人類を守る聖盾なのだから。「――遅いです」 王都中央訓練場。 十人の聖騎士が、同時に地面へ転がった。「ぐぁっ!?」「な、何だ今の動きは……!」「見えなかったぞ!?」 悲鳴と困惑があちこちから上がる。 木剣を握った若き騎士たちは、皆、王国の聖騎士団でも精鋭たちだった。魔族との戦場を生き抜き、勲章を持ち、酒場で語れば周囲から拍手される程度には強い。 だが、その若き獅子たる十人はたった一人の少女に、一分も持たなかった。 白銀の髪をセミロングにした少女――ソフィア・ストレイルは、乱れた息一つ吐かず、手にした木剣を下ろす。 倒された若き騎士たちはその所作の美しさに、思わず息を吞む。「これで終わりですか?」 その言葉に、訓練場が静まり返った。 ソフィアに悪気はない。ただ、純粋に確認しただけである。 だが、倒れている騎士たちからすれば、煽られているようにしか聞こえなかった。「言い方言い方。ソフィアちゃんや、もう少し言い方を考えなさいな」 訓練場の端から、呆れたような声が飛ぶ。 声の主は、聖騎士団副団長ガルド・グランベーズ。長い黒髪を後ろで束ねた、少しちゃらんぽらんそうな印象の男性騎士である。「申し訳ありません。では、言い換えます」 ソフィアは少し考えた後、倒れている騎士たちへ向き直った。「続けますか? まだ動ける方から順番に、もう一度倒します」「言い換えた結果、悪化しているっつーの」「え?」 ソフィアは小さく目を見開いた。どうやら本当に分かっていないらしい。 その様子を見て、ガルドは深いため息をついた。「なんつーか……。お前さん、剣以外のことになると本当に不器用だな」「不器用? 何のことでしょうか? 私は常に手を抜かず、物事に向き合っているだけです」「それが不器用なんだっつーの」 周囲の騎士たちは何も言えなかった。 目の前の少女はまだ十六歳。 しかし、戦場において彼女の名を知らぬ者はいない。 ――銀閃光のソフィア。 魔族との戦争において、幾度も最前線を切り